手仕事フォーラムblog

手仕事フォーラムのメンバーが、日々発見した事や物をお届けします
紺屋の暖簾

​​​​6/2.3に開催された伊賀スタディツアー。
今後、参加者の皆さんから様々な報告がアップされると思います。
お楽しみに。

初日の2日は、米原駅東口に午後1時集合。
車で参加したメンバーの車に分乗して湖南市下田の紺屋・紺喜染織へ向かいます。
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2021年完成を目指して開発途上という米原駅東口は、空が広かった・・・。
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さて、本題です・・・
米原駅から南下、彦根を通過して湖南市に入り、目的の紺屋に到着。
さっそく紺喜染織の植西恒夫さんのお話を聞いた後、藍染体験のワークショップが始まります。
私はワークショップに参加せず、4代続く紺屋の中を勝手にうろうろして観察。
今回は、目についた暖簾について報告します。紺屋の暖簾、です。

弁柄格子が美しいお店に入ると土間があり、
奥に続く土間の、お店と奥との境に浅葱色の暖簾が下げられていて、まず目に入ります。
暖簾の、「藍」の一文字が、紺屋の仕事を端的に表しています。
全体の感じからすると4代当主植西さんがつくったものでしょう、
今も代々続く藍甕を守る、その意気込みが伝わってきます。
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土間の右手が畳敷きの店の間で、表の光が格子を通して入り込んで美しい空間をつくっています。
壁面の棚に並んで、やや古めかしい暖簾が下げられています。
紺地に白く染め抜かれているのは、「商号(右から読みます。号は旧字の異字体)」と「山形に喜」。
商号というよりも屋号のようですが、商号は近代になっての言葉かと思われますので、それ以降の暖簾でしょう。
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浅葱の暖簾をくぐって土間を奥に進むと、右が甕場、左に住空間があります。
突き当たりに、これも古い暖簾が下げられています。
右から「各種糸類」「萬染物」「山キ 紺喜商店」の文字。
近隣農家が織る糸の藍染めをもっぱらとしていた紺屋ですが、
先代は、半纏や幟、暖簾などの型染めも手がけていたといいますから、その当時のものでしょう。
屋号は「山形にキ」で、喜がカタカナのキに。商号は「紺喜商店」となっています。
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右へ進むと居住空間で、座敷があり、奥に仏間があります。壁に、「正藍太物」の暖簾?
縞木綿と並べてあるので一見暖簾のようですが、これは暖簾ではなさそうです。
表に掲げる旗だったかもしれません。
「正藍」は、明治期に化学染料が入ってきてからできた言葉(たしか柳宗悦が書いています)ですから、
先代、あるいは先々代のものでしょう。
「太物」は、絹に対して木綿や麻の布のこと。布一反、約12mを巻くと、絹に比べて特に木綿は太くなります。
江戸時代ごろから使われている言葉だと思います。
糸染め専門の紺屋が、布つまり織物も商っていたことを表しています。
近隣の織り手が減り始めての新商売、だったのではないでしょうか。
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座敷を正面の右手は台所で、私が立っている土間は、普通の家でいう玄関の三和土で、
奥に台所や風呂場がありました。その境に、縹(はなだ)色の暖簾が下がっています。
行き来が頻繁で戸の開け閉てが面倒な場に、フレーキシブルな布=暖簾は便利です。
身内に「台所」と表す必要がないので文字はありません。
しかしよく見ると、暖簾の上の板に、表彰状の右に「紺」の文字、左に「喜」の文字が彫り抜かれています。
欄間の一種なのでしょうか、手が込んでいます。
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日本の生活空間にはカーテンはありませんでした。
しかし、暖簾が、生活の場に様々な役割を果たしていました。
優しくしなやかに、そして美しい姿で・・・紺屋の暖簾がそうした生活の様子を伝えています。

現在、植西さんは「紺喜染織」を名乗っています。
織り手も機屋もなくなった時、植西さんは織機を手に入れて自ら織物も手がけることにしました。
紺屋「紺喜商店」が、染めと織の「紺喜染織」になったのです。
紺屋の暖簾は、紺屋4代の仕事の変遷を静かに物語ってもいるのです。

| 大橋正芳 | 報告 | 10:26 | - | - |
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